博物館などに行くと、必ずといっていいほど展示してある「黒耀石(こくようせき)」。
黒耀石は、その名のとおり透き通った透明感のある、加工しやすい切れ味抜群の黒い石で、約3万年のあいだ石器の材料として利用され、産地の限られる黒耀石をもとめてたくさんの人たちがここ、鷹山の地に集まってきたのです。
そして、ここから黒耀石が全国へと運ばれていったのです。
星くずの里たかやま・黒耀石体験ミュージアム
先ほど書いた通り、博物館などでだいたい展示されている黒耀石ですが、どこでも取れるっていうわけではないのであります。
黒耀石の原産地のひとつ『鷹山遺跡群』から出土した黒耀石などを展示している博物館『星くずの里たかやま・黒耀石体験ミュージアム』で多くの黒耀石を見学してきました。
いや~、人ってキラキラする石が好きですよね。
黒耀石とは??
簡単に黒耀石の説明をしたいと思います。
黒耀石とは、火山から噴き出したマグマが固まってできた天然のガラスです。
割れ口が鋭く、加工がしやすいことから、切れ味の良いよい道具(石器)として利用されてきました。
火山の多い日本列島ですが、黒耀石ができた山は限られています。
そのなかで長野県の霧ヶ峰から八ヶ岳にかけての地域は、質の良い黒耀石が大量にとれる原産地です。
長野県の黒耀石の原産地と流通網
全国の黒耀石の産地といえば、北海道の白滝、ここ長野県の霧ヶ峰、そして佐賀県の腰岳などです。
北海道の白滝では、初めて旧石器時代の黒耀石が国宝に指定されましたよね(とてつもなく見に行きたいけど)。
長野県の黒耀石原産地を見ますと、霧ヶ峰あたりに多く分布しているのがわかります(和田川や男女倉山あたり)
長野の黒耀石が、日本全国に流通していったのがわかります(北海道まで黒耀石がわたっていったのですね)
古代史を素人なりにですが、いろいろと知識が増えていくと、現代の人が思っている以上に、古代の人たちのモノを運ぶ流通網みたいなのが発展していたんだなと痛感します。
人の足で運んでいくんですからね、すごいです。
旧石器時代から縄文時代あたりまでの黒耀石の形の変化
まだ金属を知らなかった旧石器時代と縄文時代の人びとは、おもに石を材料として道具をつくっていました。
この時代のことを『旧石器時代』ともいいます。
黒耀石が石器の材料として使われはじめたのは、およそ30000年前といわれています。
石を加工していく技術も発達していく様子がわかります。
鷹山黒耀石原産地遺跡群(黒耀石を拾い石器をつくり他の地域に持ち出した石器工場)
星糞峠のふもとを流れる鷹山川沿いでは、峠付近から崩れ落ちてきた黒耀石の原石を川底で拾ってたくさんの黒耀石の石器をつくり、周辺各地へ持ち出していた旧石器時代の工場のような遺跡が密集して発見されています。
また、この起きな遺跡のまわりや鷹山川の下流には、やや小さな遺跡が点々と続きます。
小さな遺跡は、狩りをしながら移り住んだキャンプのような遺跡で、発見された石器からは、壊れてしまった道具をつくり直したり、持ち歩いていた黒耀石の原石や素材から、新たに道具をつくって補充しながら移動していた様子がうかがえます。
これらの遺跡が発見された場所をつなげていくと、黒耀石をのものを入手する場であった原産地の中心部と、他の地域とを結ぶ、当時の道筋を推定することができます。
原石を川で拾って石器をつくる
旧石器時代の人びとは、石器の材料となる石を、おもに川原などで探していたと考えられます。
黒耀石の原石も、最初は、偶然に下流の川原などで発見し、より多くの材料を求めて上流へと向かい、原産地のふもとを流れる鷹山川の源流近くにたどり着いたのではないでしょうか。
石器をつくっていた場所は、打ち捨てられたおびただしい量の細かな割りくずや石器の失敗品、そして小さくなった原石の芯の部分が残されています。
縄文時代の星糞峠黒耀石鉱山
縄文時代になると、川原などで黒耀石の原石がとれず、地中から黒耀石の原石を掘り出すようになります。
星糞峠から虫倉山の南西斜面では、縄文人がさかんに穴を掘り、地下に埋もれていた黒耀石を採掘していました。
その採掘の跡は、掘り出された土が穴のまわりに土手のように積み重ねられ、クレーターのようなくぼみの地形となって見ることができます。
クレーターのようなくぼみは、山の斜面一帯に連なるようにしてひろがっていますが、山全体の形は、その連続するくぼみによって階段状になっており、黒耀石の採掘が、山の地形そのものを変えてしまうような、大規模なものだったことがわかります。
掘り出された黒耀石の原石と加工するための道具
展示されていた黒耀石の原石と道具。
黒耀石と石器などを見学していく(くらしと道具)
旧石器時代や縄文時代のくらしと道具について見ていきたいと思います。
金属が知られていなかった旧石器時代や縄文時代には、石を材料とした石器、木を材料とした木器、動物の骨や角、牙を材料とする骨角器が使われていました。
また、粘土からつくる土器が、縄文時代に発明されました。
湿度の高い日本列島では、木器や骨角器は腐りやすいため、ほんの一部しか残っていません。
しかし、残っている石器から、現在の私たちがふだん使っている基本的な道具は、すでに旧石器時代に発明され、縄文時代には生活の必需品として出そろっていたことがわかります。
狩猟の石器の変遷
旧石器時代には、柄の先にする井土井先端と刃をもつ石器を装着した石槍が代表的な狩りの道具として使われていました。
この槍先に用いされた石器には、古いほうから、ナイフ形石器→槍先型尖頭器→細石器が順番に登場します。
縄文時代になると、狩りの道具の中心は『弓矢』になり、矢の先に石鏃が装着されるようになりました。
旧石器時代の石器づくり
旧石器時代の代表的な石器づくりは、まず、原石を川原の石などでたたいて形を整った薄い剝片を剥がし取り、その剝片を素材として細かな加工を加え、目的とする石器(道具)の形に整えていくという手順をとります。
発見された石器や割りくずなごだ、この手順のどの段階に生み出されたものかをくわしく調べていくと、石器のつくり方や原料となった黒耀石の大きさ、そして、遺跡から何が持ち出されていたか復原することができます。
縄文時代の石器づくり
縄文時代の人びとが生活するムラは、黒耀石の採掘がおこなわれていた星糞峠から、10キロ以上離れた大きな川の下流域にひろがっていました。
このムラ跡には、鉱山から持ち運ばれてきた黒耀石の原石と、その原石をもとにつくられた石器や細かな割りくずが残されており、ムラの中で石器づくりがおこなわれていた様子がうかがえます。
ムラの跡から発見された資料を、原石から石器へという石器づくりの手順にあてはめて観察すると、大小さまざまな大きさの原石が石器の原料として利用されていたことがわかります。
旧石器時代には、原石の大きさや形を選んで利用していました。また、その原石をもとに、共通した素材からいく種類もの石器がつくり分けられていました。
それに対して、縄文だ時代には、労力をかけて掘り出した多様な原石を最大限に利用し、大きな素材からは大きな石器を、小さな素材からは、小さな石器をというように、原料や素材の大きさ、形を生かした石器づくりがおこなわれるようになりました。
黒耀石の原石を採掘していたときの道具
黒耀石の採掘場からは、黒耀石の原石を取り出すときに使用されていた道具が展示されていました。
金属のない時代、こういう木の棒で縄文時代の人びとは、黒耀石の原石を掘り出していたんですね。
旧石器時代から縄文時代あたりまでの黒耀石の原産地
私たちが現代で使用している道具類がすでに、旧石器時代から使用されていたというのが驚きでした。
そして、古代からあった全国への流通網、石器を最大限に効率よくつくる技術、などなど。
いつも思うのですが、文明的には違いがあれど、私たちが想像している以上に古代の人たちは、私たちと同じように、創意工夫をして生活していたことがよくわかります。
博物館でよく見る黒耀石、それは遠い場所から運ばれてきた大切な道具だとういことがわかると思います。
星くずのたかやま・黒曜石体験ミュージアム、ぜひ行ってみてください(黒耀石が買えます、手に取ると古代の人の気持ちになれますよ(^^)。