こんな大きな古墳、当時のひとたちはどうやって作ったんだろう??
古墳と聞くと、どういう古墳を思い浮かべますか?
鍵穴のような形をした古墳、前方後円墳を思い浮かべる人が多いのではないのでしょうか。
私も、古墳に興味を持つ前は、古墳と聞いたらまず鍵穴のような形をした前方後円墳を思いだしていました。
そして、前方後円墳と言って、いちばん有名なのは、大阪府にある『仁徳天皇陵古墳』ではないでしょうか。
仁徳天皇陵古墳は、クフ王のピラミッド、始皇帝陵と並んで、世界の3大墳墓といわれています。
古墳は時の技術の粋を集めた巨大建築物
令和の今の時代の人が、現代に残る古墳を見上げても、こんなのどうやって造ったんだろ?って、不思議に思うくらい、巨大な建築だと思います(自分も古墳を見てはいつもそう思っています)
このような巨大な建築物を、機械を使わず人の手で造られたと思うと、当時の人たちの力ってすごいと思いますよね。
古墳はどのように造られるのでしょう?
古墳の発注者『王』または偉い人
死んだら前方後円墳に入るぞ!みんな力を貸してくれ!
まず、古墳を造るぞ!と、発注者と言われる人がいます。
当時の人は、簡単に古墳を造るぞ!とは言わないと思いますが(笑)、古墳を造るには、長い時間とかなりの労力が必要になるので、王(発注者)が生きているうちから造り始めます。
どこに古墳を造るのか場所を選び、古墳を造る技術者の人を呼んだのか元からいたのかわかりませんが、技術者を呼び、鉄の道具を作る鍛冶工人、石工、埴輪工人など、たくさんの人が古墳造りに関わりました。
そして、土を掘るムラビト、葺石を作るための石を積むムラビトなど、集落全体で作る、大工事でした。
どこに古墳を造るのか(選地・古墳をつくる場所を決める)
あそこが見晴らしが良くて、みなにアピールできそう!!
古墳の場所を決めるにあたって、何個か決めごと?みたいなことがあったようです。
- 古墳の存在をアピールする立地
- 治める土地を一望できる場所
- 先に造られた古墳との位置関係、など
アピール第一(?)だと思うので、土地選びは大事です。
設計・縄張り(古墳の形を設計する)
古墳のような巨大な構造物を造るためには設計図が必要です。
紙がない当時は、板や布に図が描かれていたのではないかと思われます。
古墳の規模は、豪族の力やヤマトの関係に応じて、原図に一定の比率を掛けて決められていました。
工事が始まると、草などを除き、整地をし、原図から古墳のプランを地面に投影し、倍数と尺度を用いて杭を配置、検縄を引き回して墳丘や堀の形態を設定しました。
土工事(堀を掘り、土を盛る)
古墳の工事は、まわりの堀の堀削から始まります。
掘り具は、スコップの原型『鋤』と、柄に角度がついた『鍬』が主体です。
砕いた土は、モッコや籠などの運搬具で運び、墳丘の盛土に使われたと思われます。
墳丘に運びあげた土は、棒などで突き固め、この作業を繰り返すことによって、土はだんだんと積み重ねられ、墳丘の外形が造られたと思われます。
石工事(形を整え、石を葺く)
墳丘の周りがほぼ完成すると、全体を整える作業がおこなわれ、続いて斜面部分の葺石工事が行われました。
葺石は、古墳を一の山のように、厳かに見せるためのものです。
ムラビトの人たちは、複数のグループにわかれて、葺石工事を行ったと思われます。
埋葬(石棺を運び入れ、王を葬る)
王の棺である大きな『舟形石棺』は、墳丘の完成前に作業用斜面から運び上げられました。
王が死ぬと、館の中で殯(もがり)が幾日も行われ、やがて古墳へと運ばれます。
別れの儀式のあと、棺の中や周囲に王が使った品々が納められ、葺石がのせられたあと、石棺を河原石で覆い、さらに盛り土をして、墳頂部が完成します。
埴輪を並べる
埴輪は、王の埋葬のあとに、並べられたと思われますし、そうとうな数の埴輪が必要なため、古墳造りと並行して作られたと思います。
墳丘が完成すると、遺体の上に当たる墳頂部に、家や盾、天蓋などの埴輪が置かれました。
王の場所を示し、守護するためです。
墳丘の平坦部や墓域の縁には、円筒埴輪が、人々が見えやすい堤の一角に、儀式の様子をかたどった人物埴輪や動物埴輪などが並べられました。
ワシが生きておったときの様子がよくわかるじゃろ?
まとめ(個人の感想)
古墳の大きさもすごいけど、埴輪の数もものすごく多く、当時の人たちの技術がすごいものだと、改めて感じます。
復元された古墳が多いですから、一度、気になる前方後円墳へ行って、その大きさを間近で感じとってもらいたいです。
古墳時代って、本当にすごい。
※参考書籍
>>かみつけの里博物館・常設展示解説書